会津藩士 陸軍少将 弘化2年11月6日(1845年12月4日) - 明治31年(1898年)2 月4日)
会津藩士 陸軍少将 弘化2年11月6日(1845年12月4日) - 明治31年(1898年)2 月4日)
幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 山川大蔵は会津藩家老の長男として生まれ、19歳で藩主松平容保の京都守護職に側近として上洛します。鳥羽伏見の戦いでは最後まで大坂城に残り、会津藩の指揮官不在の中多くの負傷兵を江戸へ撤退させ下級藩士から信頼される存在となります。新政府軍が会津若松城(鶴ヶ城)まで侵攻する中、鶴ヶ城では籠城戦が決定、山川大蔵にも帰城の命令が出されますが、鶴ヶ城は時既に新政府軍の包囲網が敷かれ入城できる状態ではありませんでした。しかし大蔵はここで一計を案じ会津地方に伝わる獅子舞「彼岸獅子(ひがんじし)」に扮し笛と太鼓を部隊の先頭に敵陣の中を堂々と舞いながら行進、新政府軍は敵か味方も訳が分からず呆然と獅子舞の一行を眺めるだけだったそうです。戊辰戦争後は禁固謹慎に処せられ、明治3年(1870年)には斗南藩大参事に就き、松平容保の後を継いだ幼い藩主や藩士を守ったそうですが藩の実収は少なく大変な困窮と苦労をしています。 廃藩置県後は陸軍に入り、西南戦争では「会津藩名誉回復の戦争」と捉え、熊本城で薩摩軍を撃破する功績を挙げます。 また会津藩の名誉回復のため「京都守護職始末」を著し、会津藩が辿った正義の道を後世に伝えています。 |