会津藩士 東京帝国大学総長 嘉永7年閏7月17日(1854年9月9日) - 1931年( 昭和6年)6月26日
会津藩士 東京帝国大学総長 嘉永7年閏7月17日(1854年9月9日) - 1931年( 昭和6年)6月26日
幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 会津藩家老山川重固の三男として生まれ、山川大蔵の弟になります。 会津戦争では白虎隊に入隊し戦いに参加しますが当時まだ15歳で白虎隊の中でも年少組、年長組とは行動を共にできず待機を命ぜられ、有名な飯盛山での白虎隊の自刃には加わりませんでした。 戊辰戦争後、謹慎を命ぜられますが会津藩の重臣達は会津の将来のため健次郎を脱走させ、会津藩秋月悌次郎の計らいで長州藩士奥平謙輔の元で教育を受けさせます。 明治4年旧幕府側に理解を示す黒田清隆からアメリカ留学の推薦を受けアメリカに行きます。アメリカエール大学で物理学の学位を取得し帰国、東京大学の前身である東京開成学校の教授補として就職、日本人として最初の物理学教授となります。 そして明治34年(1901)、健次郎48歳で東京帝国大学(旧東京開成学校)総長に選ばれます。朝敵の汚名を着せられた会津藩からの最高学府の総長就任はまさに異例のことで、旧会津藩関係者は涙を流して喜んだと言われています。 |