幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 会津藩出身、戊辰戦争会津藩の戦いで祖母・母・妹らは自邸で自決、屋敷も焼失します。当時10歳の柴五郎も他の会津藩士と共に俘虜として東京に送られます。 その後、会津藩は67万石は下北半島の恐山山麓に斗南藩3万石に移封され、映画「北の零年」と同様、極寒のやせた荒地を耕す等、飢餓と寒さで生死をさまようような悲惨な生活を強いられる事と成ります。それでも何とか、旧藩士らを頼りながら、陸軍幼年学校へ15歳で入学し、士官学校を経て、軍人としての頭角を現していきます。 柴五郎が世界的にも注目されるようになったのが、明治33年(1900)北京の外国公使館区域が、民衆の反感を背景に組織された義和団の乱(中国での攘夷活動)に於いて、イギリス、フランス等当時の大国8カ国を、解放されるまでろう城戦を指揮し、その適切で勇敢な行動で、各国から高い称賛を受けています。さらに、解放後に占領した北京で、略奪や虐待を厳しく戒め、中国の人々の保護にも努めています。映画「北京の55日」ではチャールトン・ヘストンが主人公になってますが、モデルは柴五郎です。 晩年は、会津出身者の支援のため、育英事業に尽力しています。 太平洋戦争の敗戦を告げる玉音放送を聞いた1ヶ月後、身辺を静かに整理し、自決します。一命をとりとめますが、その年の12月に、85歳で息を引き取りました。 |