●日本写真の開祖
 (初めての方はこちらから
上野 彦馬 下岡 蓮杖
彦馬&九一 

●維新三傑
西郷隆盛  大久保利通    木戸孝允

●維新十傑 (三傑除く)
小松帯刀  大村益次郎 
前原一誠  広沢真臣 
江藤新平  横井小楠 
岩倉具視
 
●幕末四賢侯
松平慶永  伊達宗城 
山内容堂  島津斉彬

●幕末四大人斬
河上彦斎  中村半次郎 
岡田以蔵  田中新兵衛

●明治の元老
伊藤博文 黒田清隆 井上馨
山縣有朋 松方正義  大山巌 西郷従道 西園寺公望
桂太郎

●内閣総理大臣
伊藤博文 黒田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望

●お札の肖像
岩倉具視 高橋是清 伊藤博文福沢諭吉 新渡戸稲造
夏目漱石 野口英世 樋口一葉
板垣退助


当サイトは直リンク自由にOKです。画像もコピってください。商用以外なら一部(画像状態が悪く元の顔から大きく変化している可能性があるもの)を除き転載もOKです。その際はリンクをお願いします。

ご意見、感想、リクエスト人物、その他等、掲示板までお寄せください。 
 
     
 shasuke1950@kirakira.zaq.jp

パール・ハーバー(Attack on Pearl Harbor)

太平洋戦争の幕開け 日本時間1941年12 月8日未明、ハワイ時間12月7日(日)


Pearl Harbor
↑ショー (DD-373)の爆発炎上

・世界情勢
欧州では1939年、第2次世界大戦が勃発、ドイツが猛威を振るい英・仏等連合国側は苦戦を強い
られていました。連合国はアメリカにも参戦を望んでいましたが、アメリカ国民の世論はそれを許さ
ず、参戦には至りませんでした。イギリスではルーズベルト米大統領の盟友チャーチル政権が出
来たこともあり、ルーズベルトは何とかアメリカも参戦できないか考えていたようです。
・亜細亜情勢
一方、極東アジアでもが日中戦争の最中でしたが、アメリカ・イギリスはアジアで膨張を続ける日
本を牽制する為、日本には石油や資源を与えないように経済封鎖を行い、逆に中国には武器弾
薬の援助を行っていました。物流に制約を受けた日本は、日中戦争が長期化にならざるを得ない
状況に追い込まれていきました。
・日本の対応
この状況を打破する為に日本は資源確保の為、「八紘一宇」を大義に掲げ「大東亜共栄圏」の建
設を対外的な目標に掲げ、東南アジア方面に侵攻することを決定、当時、東南アジア各国を植民
地としていた欧米国家と戦火を交えることになります。日本の対英米開戦後の最初の作戦として、
1941年12月8日、イギリス領マレー半島上陸、と同時にアメリカの出鼻をくじく為、アメリカ領ハワイ
真珠湾への攻撃の2方面作戦を立てます。
・太平洋戦争勃発
1941年当時、米国政府中枢以外、一般の市民や軍人がこういった緊迫した日米関係の情報をど
れだけ知っていたのかは分かりませんが、まさか広い太平洋の遥か彼方から攻撃がある等とは
全く思っていなかったと思います。
1941年11月8日、日曜日の穏やかな朝、7時49分の日本軍の突然の攻撃はまったくの唐突の出
来事で、何が起こっているのか判らない状況だったと思います。事実、7時49分の第一波空中攻
撃の前に、7時10分国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃により撃沈しています。これは日本軍の特
殊潜航艇でありましたが、報告を受けた米軍太平洋艦隊司令部はこれを重要と認識せず見過ご
しています。
・宣戦布告
本来なら攻撃開始30分前に米国政府に手渡す筈の日米交渉打ち切りの最後通牒は、日本大使
館の不手際により、第一波空中攻撃の約1時間後の8時50分に届けられます。この為「真珠湾
攻撃は日本軍の騙し打ちである」との評価は現在も変わりません。
・アメリカ第2次世界大戦参戦
アメリカ国内では真珠湾の奇襲攻撃に対し「Remember Pearl Harbor」を合言葉に戦争気運は
一気に高まり志願兵が殺到したそうです。結局、チャーチル英首相が一番喜ぶ結果となり、そん
なことからアメリカが参戦する為に日本へ仕掛けた罠だったとの陰謀説もあります。
・米軍の損害
米海軍太平洋艦隊は戦艦5隻・軽巡洋艦1隻・その他2隻が沈没。戦艦2隻・軽巡洋艦1隻・駆逐艦
1隻・その他2隻が大中破。戦艦1隻・重巡洋艦1隻・軽巡洋艦1隻・その他1隻が小破した。また海
軍機・陸軍機合計479機の航空機が破壊され、人的損害は戦死・行方不明者2404人・負傷者
1627人にのぼりました。米軍にとって幸運だったのは、見た目には全滅ですが主力空母全艦が不
在だった事と、真珠湾が浅かった為に着底しても修理可能だった事で、アリゾナとオクラホマ以外
の戦艦は、早いものでは半年ほどで修理され戦線に復帰しています。
WestVirginia
パール・ハーバー
↑戦艦バージニア
 当時、欧米列強国は世界中へ植民地政策を競って行い、アジア諸国もそれぞれ欧米列強国どこかの植民地でありました。しかし、日本が同じような植民地政策をとろうとすると欧米列強の反対を受ける始末。結局、支配するのは「白人」で「有色人種」は被支配側と言う図式が欧米(白人)側の考え方(人種差別)であったと思います。
 それでも、一旦は日本軍の進攻により植民地解放を行ったことが影響してか、戦後、植民地支配を受けていた国々が再び植民地にしようとした欧米諸国に抵抗、各国で独立運動が活発化しました。「有色人種でも白人と対等に戦える」そんな東南アジア諸国の姿勢の変化が、欧米諸国の植民地政策転換のきっかけになったのではないかと思います。
                        次→中華民国空軍