新撰組二番隊隊長 剣術師範 1839年〜1915年1月5日
新撰組二番隊隊長 剣術師範 1839年〜1915年1月5日
幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 天保十年に松前藩江戸定府取次方150石の長倉家の二男に生まれる。 剣は神道無念流 新撰組ドラマの中では脇役的存在ですが、この人なしでは新撰組は語れません。と言うか、新撰組幹部の中では数少ない生き残り。生き証人として新撰組の活躍等を後世に語り継いだ「新撰組顛末記」があってこそ、今の新撰組の物語があります。 新選組顛末記」では次のように締めくくっています。 「死生の間をくぐること百余回、おもえば生存するのがふしぎなくらいの身を、大正の聖代まで生きのびて往年の敵も味方も同じ仏壇に朝な夕なのとむらいの鐘の音をたたぬ」 ヘアースタイルから考えると新撰組時代のものではなさそうです。また武士の魂といわれる刀を持っていない(剣道着だから当然かも知れませんが)事から、廃刀令(1876)以降のような気もしますので40歳前後を想定しています。 |
晩年の永倉新八(杉村義衛) 永倉は新選組を脱退後、松前藩に帰参が許され、医師・杉村松柏の養子に入り、以降杉村義衛と改名。晩年は小樽で暮らし、北大剣道場などで剣道の型を指南。 明治9(1876)年、旧幕府御典医、松本良順の援助を受け、永倉が発起人となり亡くなった同志の追悼に奔走、近藤が処刑された東京板橋に近藤・土方を追悼する石碑を建てています。 画像は大正二年、札幌で撮影された六人の剣士の画像から永倉新八1人だけを抜き出し加工したものです。 杖は仕込み杖? |