幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 毛利家は関ヶ原の戦いで西側の総大将となるのですが、毛利家内の意見の違いもあり、東軍(家康)と「合戦には参加しないので戦後の毛利家の処遇は、すべて従来通りで、領国も安堵する」との密約を交わします。そして、その通り合戦には参加しませんでしたが、戦いが終わると八ヶ国の領土を二ヶ国に減じられ、以後、外様大名として監視を受け、参勤交代等度、重なる手伝普請役に辛酸を舐めさせられる結果となります。 以降、長州藩では「倒幕」が極秘の「国是」で、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、藩主は毎年「時期尚早」と答えるのが習わしだったといいます。 毛利敬親はそんな窮乏していた藩財政の大改革を行い、実質100万石におよぶ経済力を持つ程に成功を収め、同時に藩士の文武両道、軍事力強化も行います。 一方「君臨すれども統治せず」と家中の派閥(中道派、尊王攘夷派、佐幕派)の誰が来ても、家臣が提出する案件に対して常に「そうせい」の一言で承認。 人呼んで「そうせい侯」と呼ばれるほど柔軟な姿勢に努めます。そんな藩体質がうまく機能したのでしょうか、長州藩は時代の潮流の急先鋒となり、260年余りの長年の恨み、倒幕(倒徳川)を果たし、明治時代(長州時代?)を築く事と成ります。 |