幕末・明治天然色写真館 カラー化画像池田筑前守長発(ちくぜんのかみながおき) ヘァスタイルといい,とっても現代風のお顔です。幕府直参旗本の四男として生まれ幼少時から神童と呼ばれ、和漢洋のすべてに精通。槍術、馬術、鉄砲術などにも優秀であったそうです。 25歳(1862)で目付、26(1863)で火付盗賊改・京都町奉行と出世、さらに外国奉行に抜擢されるまでになり、この頃から「筑後守」を称するようになります。 当時孝明天皇を始め攘夷論が強く、下関戦争や薩英戦争等、多くの攘夷事件が勃発、長発が外国奉行に就任した直後にもフランス人襲撃事件(井土ヶ谷事件)が起きます。犯人が捕まらない中、幕府は謝罪と同時に孝明天皇に配慮した「横浜鎖港」の交渉を行うため長発を正使とした34名からなる遣欧使節団(または横浜鎖港談判使節団)を派遣、しかし襲撃事件謝罪は収拾するものの横浜鎖港の交渉は失敗。それどころか長発は西欧の文明の強大さを認識して開国の重要性を感じ、フランス政府と「パリ約定」を結んでしまう始末。長発は帰国後、開国の重要性を力説したが、幕府は「パリ約定」を破棄、長発は罰としての石高を半分に減らされ蟄居を命ぜられることになります。その後蟄居は解かれ軍艦奉行並となりますが健康を害していたため数カ月で職を辞します。1879年没、享年43歳。 |