林忠崇(はやしただたか) 最後の大名 永元年7月28日(1848年8月26日)〜昭和16年(1941年)1月22日
幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 「藩主が脱藩!」 請西藩(千葉県木更津市) 藩主。元画 林忠崇の請西藩は、わずか1万石の小禄ではありましたが、徳川将軍家とは縁が深く、将軍家には恩義を感じていました。 慶応3年の大政奉還以降も、あくまで徳川を倒すことを目指す倒幕派と、公武合体を主張する徹底抗戦派が混沌とする中、遂に慶応四年鳥羽伏見の戦いが起こります。倒幕派が勝利を得て官軍となって以降、それまで様子見だった諸藩が相次いで官軍側に就いていきます。そんな中、遊撃隊として鳥羽伏見の戦いに参加していた人見勝太郎と伊庭八郎が忠崇を訪ね、徳川家の存続を目指して、共に戦いましょうと誘いを受けます。 劣勢である旧幕府軍に藩主である自分が自ら挙兵したなら、藩も領民も戦いに巻き込む事になると考え、59人の藩士を連れて、自らが脱藩し参戦します。案の定、東北での戦いは連戦連敗となってしまい、遂には降伏してしまいます。 何とか処刑は免れますが、もはや旧藩主としての身分もなく、地元で開拓農民として、元自分が治めたその地を自らの手で耕す事になります。その後は林家の復帰も認められ、なんと昭和16年94歳まで長寿を真っ当、おおむね幸せな生活を送られていたようです。 |