終戦連絡中央事務局次長 (1902年2月17日 - 1985年11月28日)
終戦連絡中央事務局次長 (1902年2月17日 - 1985年11月28日)
芦屋の坊ちゃんとして生まれ、気ままで好き放題に育ち、絶えず喧嘩をしていたので、家ではいつでも相手の家庭に誤りに行けるよう菓子折りを常備していたと言われています。 男前で背が高く、おまけに大金持ちの息子とあればモテて当然、女性関係も盛んでありました。 1919年、神戸一中を卒業しケンブリッジ大学に留学、家からは年間(現在換算4000万円)の大金が仕送りされ、車好きだった彼は高級車ベントレーを購入、イギリスでは高級車を乗り回している東洋人として有名になり、そんなことから政界・財界人とも人脈を広げていきます。 1929年帰国、結婚をし財界に身を置きます。この間海外に赴くことが多く駐イギリス大使であった吉田茂と知り合い、イギリス大使館を定宿とするほどになります。 1945年東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局に就任。ここで次郎はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQから「従順ならざる唯一の日本人」と言われ、また「マッカーサーをしかりつけた男」の異名も其の辺から来たようです。 死ぬときに勢いよく書かれた遺書にはたった二行「葬式無用、戒名不用」 真に破天荒な人生でありました。 |