幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 写真を撮るにも拘らず不安そうな浮かない顔、必殺仕事人の中村主水ではありませんが、昼行灯と言う感じがぴったりです。しかし実際の小栗忠順は決してそんな事は無く、幕臣有数の切れ者。安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として渡米した際は、軍艦奉行に木村芥舟が司令官、勝海舟が艦長、その他に福澤諭吉も乗っていましたが、小栗忠順が代表と間違われたほど最堂々としていたそうです。 大政奉還後も薩長への主戦論を唱えるも肝心の慶喜にその意思は失く、罷免されて領地である上野国(群馬)に隠遁。東善寺を住まいとし学問塾の師事や水田整備、用水路建設の日々を送り、平穏な日々を送るも、新政府に対し敵意あるものと薩長軍に見なされ逮捕、翌日烏川のほとりで家臣3名と共に斬首されます。お気の毒です。 徳川政権の中で洋式軍隊の整備、造船所や製鉄所を開設等々、未来を見据えていた小栗忠順。新政府に対し自らの保身をを図る事も無く散っていた生き様は「ラストサムライ」の称号に相応しい人物であったと思います。 |