幕末明治天然色写真館カラー化画像 日露戦争の立役者、明治天皇の崩御の際の殉死、その他数々の美談により日本人の尊敬する人物像として昭和30年代まで上位を占めていた乃木希典ですが、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」により、いわゆる「乃木愚将論」が代頭し評価が分かれる事になります。司馬遼太郎の小説により坂本龍馬が評価されるようになり、乃木大将は引きずり落ろされる事となりますが、司馬遼太郎と言えど一小説家、その一小説家により日本人全体の評価がこれだけ変わるのもどうかとは思いますが、乃木希典については私自身も尊敬する人物とは疑問を感じます。 旅順攻撃の際、機関銃を装備した要塞に対し、単発銃と銃剣、刀の突撃の繰り返し、白襷隊と称し白い布で胸に×印を 付けた人間標的化、消耗戦という意味では、ロシア軍の銃弾の消費と日軍の肉弾(兵士)の消費の戦い、兵士の命が弾と同等のようなものです。旅順攻撃は勿論、乃木希典一人の責任では有りませんが。決定的に思うのは明治天皇の崩御の際に殉死した時に残した遺書に、西南戦争の際に奪われた軍旗の責任が記されていましたが、旅順での6万余人の死傷者に対する事は触れられていなかった事です。どうやら乃木希典の頭には軍旗のほうが重かったようです。 |
この日明治天皇の御大葬が行われます。明治天皇に常々目を掛けられていた乃木は予てより明治天皇上天在の際は殉死する事を決めていたのだと思います。 そして遂に1912年7月30日明治天皇崩御、その日から御大葬の日を殉死決行日と決めていたようです。この日は午前四時頃起き出でて静子夫人と共に水垢離を取り、夫妻ともに大礼服に身を改め、呼んでいた写真師に記念写真を撮影して貰います。 午前九時頃最後の参内に向い、午後4時頃帰宅、午後6時の御大葬儀に列することもなく、午後8j時前、霊柩の宮城出発を告げる号砲が鳴り響くのを合図に夫人とともに自刃します。 乃木の殉死(自殺)には賛否両論がありますが、乃木大将と言う人物の神格化に輪をかけた事には間違いありません。 日露戦争を機に靖国神社で英霊と言う言葉が使われるようになります。そして御国のために戦死するという事が尊ばれるようになり、その後の第二次世界大戦での精神論だけの無謀な作戦が繰り返され、特攻、玉砕戦法が乃木希典の戦いが故習されているように思われてなりません。 |