韓国統監 伊藤博文 / 李 垠(り ぎん/イ・ウン)1897年10月20日 - 1970年5月1日
幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 何かと腹立たしいお隣の妄想3カ国。 この東アジアの歴史について触れていきたいと思います。 画像の子供は初代大韓帝国 皇太子李垠(りぎん/イ・ウン)。大韓帝国とは明〜清から500年余り冊封体制(植民地)を受けていた李氏朝鮮が、日清戦争での日本の勝利により結ばれた下関条約(1895年)で清から独立し、その後1910年の韓国併合条約まで称された国号です。 李氏朝鮮は清朝から毎年、数千人規模の性奴隷や労働奴隷や金品等の朝貢を強制され、国内においても王族や両班(貴族階級)等の支配階級(朝鮮流儒教?)があり、上から下への搾取略奪は当然の如く行われていた国です。朝鮮半島を訪れた外国人からは世界で最も腐敗と貧困の国と評価されるほどでした。 日本政府はそんな朝鮮半島を統治併合しての政治改革が必要と考えましたが、伊藤博文は経済面の問題から併合には反対の立場。しかし朝鮮人「安重根」にハルビンにて暗殺され、結果「安重根」の意思とは裏腹に併合が促されます。そして、日韓併合後は日本国内と同様、日本の国家予算で道路交通等のインフラ整備し、産業も育成させ李朝時代に教育を受けられなかった平民達に対しても「朝鮮教育令」が施行され、教育を受けられるよう学校も建て、李朝時代に禁止されていたハングル文字を復活させています。 |
「李垠」は日本統治により、幼少期に日本政府の招きで訪日し、学習院を始め陸軍士官学校まで教育を受け、1910年の日韓併合によって王公族として日本の皇族に準じる待遇を受けます。その後、1920年4月に日本の皇族の「梨本宮守正王の長女・方子女王」と結婚します(当時14歳だったそうです)。「李垠」は父「純宗の」死去に伴い、「李王家を承継しますが、第二次世界大戦の日本の敗戦後、日本国憲法施行に「李垠夫妻」は王公族の身分と日本国籍も喪失します。在日韓国人となった「李垠夫妻」は帰国を希望しますが、時は「李承晩」政権の時代、大韓民国への帰国は許されず、また統治していた「GHQ」においても国民から支持のあった日本の天皇と違い、韓国の「王朝」は廃止されます。夫妻が帰国できたのは「朴正煕(現大統領朴槿の父)」政権が成立した1963年になります。 日本の敗戦までの30年余りの統治期間の間に一千万人足らずの人口が二千五百万人に増え、平均寿命は24歳から45歳に伸び、未開の農業社会だった朝鮮は短期間に近代的な資本主義社会に変貌、大戦後には漢江の奇跡とまで言われます。韓国はでは日韓併合時代、日本は韓国の富を略奪しただけだった。それがなければもっと早く近代化ができていたと本気で思い込んでいるようですが、李朝に略奪するような富や技術等は皆無、唯一奪った事といえば貴族階級の特権(支配層への略奪)位なもの、日本側の人的、経済的持ち出しばかりでした。 1976年12月、経済企画院が出した「請求権資金白書」というものがあります。「請求権資金白書」とは1965年の日韓国交正常化の際、日本から韓国に提供された5億ドルが韓国でどのように使われたのか、を詳細に記録したものだそうです。もし、これを日韓両国民が読めば現在問題になっている慰安婦問題等の賠償問題は存在しないものだと理解できるものだそうです。「請求権資金白書」是非開示してもらいたいものです。 |
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