幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 郡長正は会津藩家老・萱野権兵衛の次男として生まれました。 郡長正の父権兵衛は戊辰戦争での会津藩の責任を背負い、明治2年に切腹したことから、家族は萱野姓を名乗ることが出来なくなり、母の姓「郡」を名を名乗ることとなります。 明治3年(1870年)に豊津藩校育徳館に留学しますが、翌年の明治4年(1871年)5月1日に、自刃する結果となります。 自刃した真相は不明ですが、母への手紙で育徳館での食事の不満を書いたことを母から手紙で叱責され、その手紙を他藩の子弟に見られ、からかわれた事を恥じて切腹したとか、他の師弟と喧嘩をし、その際、豊津藩の小笠原家を誹謗したことを後に悔いて「小笠原の殿様に申し訳ないことをした」と腹を切った。とかの説が有ります。 いずれにせよ、15、16歳で早まったことを、と思います。現在でも子供の自殺が問題となりますが、人生は長く、谷あり山ありです。生きていれば良いことが有ります。命は大切にして欲しいものです。 |