越駆け抜けた蒼龍 文政10年1月1日(1827年1月27日 ) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日)
越駆け抜けた蒼龍 文政10年1月1日(1827年1月27日 ) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日)
幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 越後長岡藩上席家老 司馬遼太郎小説 「峠」 「英雄児」 司馬遼太郎の小説の中では戊辰戦争での長岡藩の立場を新政府軍側にも幕府軍側にもつかない中立とし、長岡藩を「武装独立・中立主義の長岡公国」を宣言をします。時勢の折、そんな突拍子もない宣言を新政府軍と交渉しますが、結局官軍になるか賊軍になるかの二者択一しか認め得られず、結果新政府軍からは賊軍扱いとされ、奥羽列藩同盟に加わり北越戦争へと突き進んで行きます。(小説を読んだ訳ではありませんので、間違っていたらすみません)。 史実の結果としては河井継之助の判断しだいでは北越戦争は回避できており、長岡藩を戦火に巻き込むこともなかったとも言われていますが、当時の奥羽列藩としては会津藩を攻めるような立場を取ることは武士としてできなかったんだと思います。 継之助は当時日本に3門しかなかったガトリング砲(機関銃)を2門購入しており善戦しますが、敢え無く負傷、その傷がもとで死んでてしまいます。 河井継之助は数々の名言を残しておりますがなかなか深く哲学的な感じがします。 ・辞世の句は 「はじめから死ぬことは覚悟していたが、 こんなに痛いとは覚悟していなかった 」 正直?面白いです。 |