初代総理大臣 天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)
初代総理大臣 天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)
幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 幼名は利助、貧農の生まれで身分も低かったのですが、養子等を経て武士階級となり松下村塾に入り、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔とし、さらに春輔と改名します。 伊藤博文は、そこで倒幕運動に拘る事と成ります。1863年長州藩の仲間と共にイギリスに留学し英語や西洋文明を学び、その後の人生に多いに活かす事となりました。 撮影は同藩の高杉晋作と同じスタジオです。まだ20歳台でしょうか、一般に知られている総理大臣時の写真とは随分違います。 千円札の肖像画になったのが1963年、それから夏目漱石に代わるまでまでの間20年余り、大変お世話になりました。 |
歴代最年少の44歳で総理大臣となったように、政治家としての力量、実力は大したもので、多くの業績も残しておりますす。また、同郷出身の山縣有明等とは違い、金や財産に執着する事も無く清廉潔白な政治家だったようです。 しかし、無類の女好き、2人目の夫人となる花柳界に居た梅子さんとは、当時結婚していたにも拘らず見初めて即前夫人と離婚、結婚をしたそうです。それからも各地に妾を作るわ作るわ、梅子さんの居る自宅にまで妾を連れてきたとか、極めつけは岩倉具視の次女戸田極子にまで手を出したとかで、当時大スキャンダルになったそうです。 まぁ、仕事も女も、豪快に生涯貫き通したようです。 日本の韓国統監府初代統監だった 1909年10月26日、ハルビン駅頭に於いて大韓帝国時代の朝鮮の独立運動家?(テロリスト)安 重根に暗殺されます。 |