幕末・明治天然色写真館 カラー化画像 石川啄木が26歳で病没してから100年。 代表歌「はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る」等のイメージから貧しさの中で早世し、不遇の一生を過ごした詩人と思われていますが実際には天才気取りで生意気な明るい浪費家だったそうで、与謝野鉄幹・晶子夫妻、金田一京助宮崎郁雨等に金銭的な面倒まで見て貰うほど可愛がられ人気者であったそうです。 寺の長男として生まれ、男は啄木一人だけだったため若くして一家の扶養を負うようになります。文筆活動生計を立てたかった啄木は金を稼ぐためにも小説家を目指しますが、書いても書いても全く売れず、行き詰った時に口にしたのが短歌でした。明治41年6月3日間で281首もの歌をつくり、その時の歌が後の世へ評価を残すことになります。人生に於けるこのたったの3日間が石川啄木の名前を後世に残るようになったとも言えます。 しかし歌のイメージとは裏腹に浅草等へ娼婦通い、常に金が足りず借金を重ねる始末で現在の価値で700万円程の借金があったそうです(サラ金ならえらい事)。病気で死ぬ間際には薬代どころか食べるものを買う金さえなく困窮していたそうです。 没後は仲間により歌集「悲しき玩具」が刊行、生前のみならず死後まで周りに世話をかけた啄木ですが、それでも憎めない愛されるべき存在であったようです。 |